七五調になっている
では、具体的にどんな形が生き残ったのでしょう?声に出して読んでみてください。
「犬も歩けば 棒にあたる」「立つ鳥 あとを濁さず」「聞くは一時の恥 聞かぬは一生の恥」
どれも、気持ちよく口から出てきますよね。これは偶然ではありません。日本語には七五調という、耳になじみやすいリズムがあるからです。
七音と五音の組み合わせは、和歌や俳句、民謡にも使われてきた、日本語の背骨のようなリズムです。「ことわざ」も、このリズムに乗ったものほど残りやすかったと考えられます。
「ことわざ」には、作者がいません。誰かが一人で考え出したわけではないのに、どれも見事に形が整っていて、しかも覚えやすい。これは不思議なことだと思いませんか?ここでは、「ことわざ」がどこから生まれ、どのようにして今の形になったのかを見ていくことにしましょう。
「ことわざ」のもとをたどると、行き着くのは名もない人々の気づきです。
毎日の暮らしのなかで、「こういうときは、こうなることが多いなあ」と感じる瞬間がありますよね。急いだときほど失敗する。親切にしておくと、あとで助けられる。木登りの上手な猿でも、たまには落ちる。
そうした気づきを、誰かがふと口にします。それを聞いた人が「うまいことを言うな」と思い、別の場面でまた使う。そうやって人から人へ伝わるうちに、だんだん言葉が磨かれていったのです。
つまり「ことわざ」は、作られたのではなく、育ったものなんですね。
ここで大事なのは、「ことわざ」が広まった時代、ほとんどの人は読み書きができなかったということです。
大切な知恵を次の世代に伝えるには、口から口へ、耳から耳へと受け渡すしかありませんでした。そのためには、どうしても必要な条件があったんですね。
短いこと。リズムがよいこと。一度聞いたら忘れないこと。
この三つを満たさない言葉は、どんなに正しいことを言っていても、途中で消えてしまいます。逆に言えば、今に伝わる「ことわざ」は、何百年もの「言葉のふるい」をくぐり抜けてきた精鋭ばかりというわけです。
「ことわざ」には、覚えやすくするためのいくつかの“型”があります。どんなものがあるのか、見ていきましょう。
では、具体的にどんな形が生き残ったのでしょう?声に出して読んでみてください。
「犬も歩けば 棒にあたる」「立つ鳥 あとを濁さず」「聞くは一時の恥 聞かぬは一生の恥」
どれも、気持ちよく口から出てきますよね。これは偶然ではありません。日本語には七五調という、耳になじみやすいリズムがあるからです。
七音と五音の組み合わせは、和歌や俳句、民謡にも使われてきた、日本語の背骨のようなリズムです。「ことわざ」も、このリズムに乗ったものほど残りやすかったと考えられます。
前半と後半が、きれいに対応している形です。
「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」「人の振り見て、我が振り直せ」「良薬は口に苦し、忠言は耳に逆らう」
前半を覚えれば、後半も自然と出てきます。しかも対比があるぶん、意味もはっきりしますね。
「蛇の道は蛇」「牛は牛連れ、馬は馬連れ」「蛙の子は蛙」
同じ言葉が二度出てくると、不思議と耳に残ります。わらべ歌と同じ仕組みですね。
「猿も木から落ちる」「急がば回れ」「餅は餅屋」
短く、ぱんと言い切る形です。説明がないぶん、かえって強く響きますよね。
「猫に小判」「馬の耳に念仏」「捕らぬ狸の皮算用」
理屈で説明するかわりに、情景をぽんと差し出す形ですね。「価値の分からない人に貴重なものを与えても無駄だ」と言うより、「猫に小判」と言うほうが、ずっと早く伝わります。しかも絵が浮かびますから、忘れません。
ここで少し寄り道をしましょう。
「ことわざ」を集めてみると、動物の多さに驚かされます。犬、猫、馬、牛、猿、狸、鳥、魚、虫…。なぜこれほど動物が選ばれたのでしょう?
答えは簡単で、毎日目にしていたからです。
馬や牛は田畑を耕す働き手でしたし、犬や猫は家のそばにいました。鳥の声で季節を知り、虫の動きで天気を読む。動物は、誰にとっても共通の話題だったんですね。
たとえ話は、相手が知っているものでなければ成り立ちません。だから「ことわざ」の主役は、いつでもその土地で身近な生き物になるのです。
このあたりについては「ことわざにあまり出てこない動物たち」のページでも詳しく書いていますので、あわせてご覧ください。
ここまで「庶民の暮らしから生まれた」という話をしてきましたが、実は「ことわざ」の出どころはそれだけではありません。大きく分けると、四つほどの道筋があります。
もっとも多いのがこれですね。「犬も歩けば棒にあたる」「餅は餅屋」など、日々の経験から生まれた言葉です。
「虎の威を借る狐」「画竜点睛」のように、中国の古い話がもとになったもの。これを故事成語と言います。くわしくは「ことわざの歴史」のページをご覧ください。
「油断大敵」「他力本願」「因果応報」など、お寺の説法から広まった言葉も少なくありません。「虫の知らせ」も、体のなかに虫がいるという仏教の考え方に由来しているんですよ。
「紺屋の白袴」「しのぎを削る」のように、職人や武士の仕事場で使われていた言葉が、やがて一般に広まったものです。
同じ「ことわざ」でも、ずいぶん違う道をたどってきているんですね。
こう考えると、一つの疑問が浮かびます。では今でも、新しい「ことわざ」は生まれているのでしょうか。
答えは、おそらく「生まれにくくなっている」です。
理由はいくつかあります。まず、文字と記録が当たり前になったこと。覚えやすくする必要がなくなれば、言葉は磨かれません。それから、暮らしが人によってばらばらになったこと。みんなが同じ経験をしていた時代とは違い、今は共通のたとえが作りにくいんですね。
とはいえ、まったく生まれていないわけでもありません。「豚もおだてりゃ木に登る」は昭和に広まった比較的新しい言葉ですし、インターネットから生まれて定着しつつある言い回しもあります。
百年後の人が、今の私たちの言葉を「ことわざ」として使っているかもしれない——そう考えると、ちょっと面白いですよね。
「ことわざ」に作者がいないというのは、見方を変えれば、みんなで作ったということです。
誰かが言い、誰かが覚え、誰かが使い、誰かが伝えた。その繰り返しのなかで、余計なものが落ち、大事なものだけが残りました。何百年もかけて磨かれた言葉が、今あなたの口から出てくる——そう思うと、何気ない一言も少し違って聞こえてきませんか。
「ことわざ」がどんな時代に、どのように記録されてきたかについては「ことわざの歴史」のページで、国による違いについては「ことわざと文化」のページで紹介しています。あわせてご覧くださいね。