水を得た魚
その人に合った場所を得て、生き生きと活躍すること。
陸に上げられて弱っていた魚が、水に戻ったとたん元気に泳ぎ出すことに由来しています。中国の『三国志』で、劉備が諸葛孔明を得たときの喜びをこう例えたという話が基になっています。
部署が変わった途端、彼は水を得た魚のように働きはじめました。
海に囲まれた日本では、魚は昔から食卓に欠かせない存在でした。釣りや漁は人々の暮らしそのものだったと言ってもいいでしょう。それだけ身近だったからこそ、魚が登場する「ことわざ」は驚くほどたくさん残されています。ここでは魚にまつわる「ことわざ」を、鯛(たい)や鰯(いわし)など種類ごとのものもあわせて紹介していくことにしましょう。
その人に合った場所を得て、生き生きと活躍すること。
陸に上げられて弱っていた魚が、水に戻ったとたん元気に泳ぎ出すことに由来しています。中国の『三国志』で、劉備が諸葛孔明を得たときの喜びをこう例えたという話が基になっています。
部署が変わった途端、彼は水を得た魚のように働きはじめました。
相手が好意を示してくれれば、こちらもそれに応える気持ちになるということ。
もとは「魚、心あれば、水、心あり」という形でした。魚に水を慕う心があれば、水にも魚を思う心がある、ということに由来しています。
先に手を貸してくれたので、こちらも協力しました。魚心あれば水心ですね。
手に入れそこなったものは、実際よりも値打ちがあったように思えるということ。
釣り上げる寸前で逃げられた魚を、釣り人が実物より大きく語ってしまうことに由来しています。
あのとき買っておけばと悔やんでいますが、逃がした魚は大きい、というだけかもしれません。
本当に優れたものは、多少悪くなっても価値を失わないということ。
鯛は魚の中でも特に高級とされ、少し傷んでもほかの魚より値打ちがあるとされたことに由来しています。
ずいぶん古い道具ですが、さすがの切れ味です。腐っても鯛ですね。
わずかな元手で、大きな利益を得ること。
安価な海老を餌にして、高級な鯛を釣り上げることに由来しています。
いただきもののお礼に高価な品が届きました。海老で鯛を釣ったような気分です。
大きな組織の末端にいるより、小さくてもその長になるほうがよいということ。
高級な鯛でも尾の部分より、安い鰯でも頭のほうがよい、ということに由来しています。「鶏口となるも牛後となるなかれ」と同じような意味の「ことわざ」です。
大企業より小さな会社で挑戦します。鯛の尾より鰯の頭ですから。
つまらないものでも、信じる人にとってはありがたく尊いものになるということ。
節分に鰯の頭を柊(ひいらぎ)の枝に刺して門口に飾る風習に由来しています。鬼除けのまじないですね。
このお守りで気持ちが落ち着くなら、鰯の頭も信心からでしょう。
実力のない者が、優れた人たちの中に交じっていること。
小魚の群れに紛れ込むことに由来しています。身の程に合わない場にいることを、謙遜して言うときにも使われます。
専門家ばかりの会議で、私は雑魚の魚交じりでした。
身近すぎるものは、かえってその存在に気づかないということ。
水の中で暮らす魚には、水があることが当たり前すぎて見えていない、ということに由来しています。「人の目に空見えず」と続けて言うこともあります。
家族のありがたみは、離れてみて分かりました。魚の目に水見えず、ですね。
あまりに清廉潔白すぎると、かえって人が寄りつかないということ。
中国の古い書物に由来しています。澄みきった水には餌になるものがなく、魚が住めないことから生まれました。
細かく決めすぎると、誰も来なくなりますよ。水清ければ魚棲まず、です。
やり方を間違えていては、目的は決して達せられないということ。
中国の『孟子』に由来しています。木に登って魚を探しても、見つかるはずがないということですね。
その方法では成果は出ません。木に縁りて魚を求む、というものです。
相手のなすがままで、どうすることもできない状態のこと。覚悟を決めて身をまかせること。
まな板の上に載せられた鯉は、もうじたばたせず静かにしているという言い伝えに由来しています。
あとは結果を待つだけです。俎板の鯉の心境ですよ。
勢いよく出世すること。立身出世のたとえ。
中国の黄河にある「竜門」という急流を登りきった鯉は、竜になるという伝説に由来しています。「登竜門」という言葉も、ここから生まれました。端午の節句の鯉のぼりも、この言い伝えにちなんでいます。くわしくは、このページの魚にまつわる伝説(昔話)で紹介しています。
入社三年で部長とは、鯉の滝登りのような出世ですね。
一度うまくいったからといって、同じ方法で何度も成功するとは限らないということ。
柳の木の下で泥鰌を捕まえたことがあっても、次も同じ場所にいるとは限らない、ということに由来しています。
同じ企画をもう一度やっても、柳の下にいつも泥鰌はおらぬ、ですよ。
どんなに元気に動き回っても、自分の限界を超えることはできないということ。
海老が勢いよく跳ねても、結局は川の中から出られないことに由来しています。
いくら息巻いても、蝦踊れど川を出でず、というところでしょう。
得意なことが原因で、かえって身を滅ぼすことがあるということ。
泳ぎの得意な人ほど油断して、川で命を落としてしまうことに由来しています。「河童の川流れ」とは少し違い、こちらは得意ゆえの油断を戒める言葉です。
得意分野だからと油断は禁物です。川立ちは川で果てる、と言いますからね。
目的を達した途端、それまで役立ったものを忘れてしまうこと。
中国の『荘子』に由来しています。「筌」は魚を捕るための竹製の道具のこと。魚が捕れてしまえば、道具のことは忘れてしまうということですね。
成功した後に恩人を忘れるのは、魚を得て筌を忘るというものです。
どんなごちそうも、一人で食べてはおいしく感じないということ。
高級な鯛でさえ、一人きりの食卓では味気ない、ということに由来しています。食事は誰かと囲んでこそ、ということですね。
みんなで食べると違いますね。鯛も一人はうまからず、です。
見た目は新しそうでも、中身はもう傷んでいること。
鯖は傷むのが非常に早く、獲れたてに見えても実は古い、ということに由来しています。
新しそうに見えても油断できません。鯖の生き腐れ、ということもありますから。
やってみたいけれど、危険があるので思い切れないということ。
河豚は美味だけれど毒があるため、食べたいが命は惜しい、という気持ちに由来しています。
あの投資は気になりますが、河豚は食いたし命は惜しし、です。
魚は水の中で暮らす脊椎動物で、えらで呼吸をし、ひれを使って泳ぎます。地球上には確認されているだけでも3万種以上がいて、脊椎動物の中では最も種類が多いグループなんですよ。海水魚、淡水魚、その両方を行き来する魚と、暮らす場所もさまざまです。鮭のように海で育ち、産卵のために生まれた川へ戻ってくる魚もいれば、鰻のように川で育ち、産卵のためにはるか遠くの海まで旅をする魚もいます。あの小さな体で何千キロも移動するというのですから、驚きますよね。
魚は体の側面に「側線」という感覚器官を持っていて、水の流れやわずかな振動を感じ取ることができます。群れで泳ぐ魚がぶつからずに一斉に向きを変えられるのは、この側線のおかげなんですね。また、魚には耳がないと思われがちですが、実は体の中に内耳があり、音もちゃんと聞こえています。記憶力についても、かつては数秒しかもたないと言われていましたが、近年の研究では数か月単位で覚えていられる種もいることが分かってきました。日本では古くから魚が貴重なたんぱく源であり、鯛は「めでたい」に通じる縁起物として祝いの席に欠かせない存在でした。「ことわざ」に鯛や鰯(いわし)がたびたび登場するのも、それだけ暮らしに根づいていた証拠と言えるでしょう。
魚が登場する日本の昔話といえば、やはり「浦島太郎」でしょう。ですが、ここでは少し趣の違う「鯉の滝登り」、つまり登竜門の伝説を紹介することにしましょう。中国に古くから伝わるお話で、日本の端午の節句にも深くかかわっているんですよ。
昔々、中国の黄河の上流に「竜門(りゅうもん)」と呼ばれる場所がありました。そこは切り立った岩のあいだを水が激しく流れ落ちる、とてつもない急流です。あまりの勢いに、どんな魚も登ることができません。ところが、こんな言い伝えがありました。「この滝を登りきった魚は、竜になることができる」と。
毎年、数えきれないほどの魚が竜門に集まってきました。鯉たちは次々に滝へ挑みます。けれど水の勢いはすさまじく、跳ね上がったそばから流され、岩にたたきつけられ、ほとんどの魚があきらめて引き返していきました。それでも、一匹の鯉だけは違いました。何度弾き返されても、傷だらけになっても、また滝の下に戻ってきては跳び上がるのです。一日、また一日と、その鯉は挑み続けました。
そしてとうとう、その鯉は滝のてっぺんへとたどり着いたのです。すると、たちまち体が輝きはじめ、ひれは翼のように、ひげは長く伸びて、見事な竜へと姿を変えました。竜となった鯉は、天高く昇っていったということです。
このお話から、難しい関門を突破して出世することを「登竜門」と言うようになりました。また、日本では子どもが健やかに育ち、立派に出世するようにという願いを込めて、端午の節句に鯉のぼりを立てる風習が生まれました。空を泳ぐ鯉のぼりを見上げるとき、この伝説を思い出してみてください。