知らぬが仏
知ってしまえば腹も立つけれど、知らないでいるほうが心穏やかでいられるということ。
何も知らない人は、仏のように穏やかな顔をしていられることに由来しています。「知らぬが仏、見ぬが極楽」と続けて言うこともありますよ。
「知らぬが仏」「捨てる神あれば拾う神あり」。お寺や神社は、昔の人にとって信仰の場であると同時に、暮らしのすぐそばにある場所でした。だからこそ、そこから生まれた言葉がたくさんあるんですよ。ここでは、寺社にまつわる「ことわざ」を紹介していくことにしましょう。

知ってしまえば腹も立つけれど、知らないでいるほうが心穏やかでいられるということ。
何も知らない人は、仏のように穏やかな顔をしていられることに由来しています。「知らぬが仏、見ぬが極楽」と続けて言うこともありますよ。
どんなに優しい人でも、何度も無礼なことをされれば怒るということ。
慈悲深い仏でも、三度顔を撫でられれば腹を立てるという言い伝えに由来しています。「仏の顔も三度撫ずれば腹立つ」という形が、もとの言い方ですね。
世の中のことは、たいていお金の力でどうにかなってしまうということ。
「沙汰」とは裁きのこと。地獄の閻魔の裁きでさえお金で決まる、というわけですから、なかなか皮肉のきいた言葉ですね。
欲や迷いの心は、追い払おうとしてもなかなか消えないということ。
人の煩悩を、追い払ってもまとわりついてくる犬にたとえた言葉です。「犬のことわざ」のページもあわせてご覧ください。
いくら言って聞かせても、効き目がないこと。
馬にありがたい念仏を聞かせても、その価値は分からないということに由来しています。同じ意味の「ことわざ」に「猫に小判」「犬に論語」などがありますが、念仏が出てくるのは馬だけなんですよ。
日ごろ見聞きしていると、自然に覚えてしまうということ。
お寺の門前で遊んでいる子どもが、いつのまにかお経を覚えてしまう、ということに由来しています。環境の影響の大きさを言いあらわした言葉ですね。
ある人を憎むと、その人に関わるものすべてが憎く見えてしまうということ。
お坊さんが気に入らないと、着ている袈裟まで憎らしく思えてしまう、ということに由来しています。
物事をうまく運ぶためには、時には嘘も必要だということ。
「方便」とは、仏教で人を悟りに導くための手段のこと。もとは人を救うために用いる巧みな手立てを指す言葉でしたので、「嘘をついてもいい」という意味ではないんですね。
苦労して作り上げても、肝心なところが抜けていては意味がないということ。
仏像を彫り上げても、魂を入れる儀式をしなければ、ただの木の像のままだということに由来しています。「画竜点睛を欠く」と同じような意味の「ことわざ」ですね。
ちょっとした気のゆるみが、大きな失敗を招くということ。
お寺の灯明(とうみょう)の油を絶やさないよう、見張っていたことに由来するという説があります。ただし諸説あり、「ゆったりする」という意味の古語から来たとする説もあるんですよ。
見捨てる人がいる一方で、助けてくれる人もいる。だから落ち込む必要はないということ。
日本には八百万(やおよろず)の神がいるという考え方があります。数多くの神がいるからこそ生まれた言葉ですね。落ち込んでいる人を励ますのにぴったりの「ことわざ」です。
余計なことに関わらなければ、災いを招くこともないということ。
神に無闇に近づかなければ、祟られることもない、ということに由来しています。面倒ごとを避けるときの言い訳にも使われますね。
普段は信心しないのに、困ったときだけ頼ること。
そのままの意味ですね。人間らしいところを突いた、少し皮肉な言葉です。
正直に生きていれば、守られるということ。
正直者の頭上には神が宿る、という考え方に由来しています。
悪いことをすると、報いを受けるということ。
神仏が与える罰のことです。「食べ物を粗末にすると罰が当たる」といった具合に、子どもを戒めるときによく使われますよね。
ここからは、少し趣向を変えましょう。「ことわざ」ではありませんが、寺社に由来する言葉はほかにもたくさんあるんですよ。しかも、もとの意味から大きく変わってしまったものが目立ちます。
今は「こらえる、辛抱する」という意味ですね。
ところが、もとは仏教でいう煩悩の一つでした。「自分は偉い」と思い上がる心のこと。つまり、本来は悪い意味の言葉だったんですよ。それが日本では「我を張る」という意味を経て、やがて「じっとこらえる」という今の意味に変わっていきました。
喜びのあまり、我を忘れること。
仏教の世界観では、天上界にいくつもの階層があるとされます。その一番上が「有頂天」。文字どおり頂きにある天なんですね。そこから、最高に舞い上がった状態を指すようになりました。
今では「人任せにすること」という意味で使われますが、本来はまったく違う言葉です。
もとは浄土教の用語で、自分の力ではなく阿弥陀仏の力にすがって救われる、という意味でした。意味が変わってしまった言葉の、代表例と言えるでしょう。
気が進まない、面倒くさいこと。
「劫(こう)」とは、仏教で使われるきわめて長い時間の単位です。それが「億」もあるのですから、気の遠くなるような長さですよね。あまりに長すぎて考えるのも嫌になる——そこから「面倒くさい」という意味になりました。
ちなみに「亀の甲より年の劫」の「劫」も、同じ言葉なんですよ。
人と会ったときに交わす、決まった言葉や動作のこと。
もとは禅宗の言葉で、僧侶が互いに問答をして、相手の悟りの深さを確かめ合うことを「一挨一拶(いちあいいっさつ)」と言いました。「挨」も「拶」も、押す、迫るという意味です。かなり厳しいやりとりだったんですね。
家の入り口のこと。
もとは禅宗の言葉で、「玄妙(げんみょう)な道に入る関門」という意味でした。悟りへの入り口、というわけですね。それが寺の入り口を指すようになり、やがて一般の家にも使われるようになりました。
言っても仕方のないことを、ぐずぐず言うこと。
こちらも仏教の煩悩の一つで、物事の道理が分からない愚かさを指す言葉でした。
一生に一度の出会いを大切にしなさい、ということ。
もとは茶道の心得をあらわす言葉で、仏教の「一期」(人の一生)という考え方がもとになっています。茶席での出会いは二度と繰り返されない——そう考えて、一回一回を大切にせよという教えですね。
こうして並べてみると、驚くほどたくさんの言葉が寺社から生まれていると分かります。では、なぜこれほど多いのでしょう?
理由は、お寺や神社が、暮らしのすぐそばにあったからです。
今でこそ寺社に行くのは特別な機会かもしれませんが、昔は違いました。お寺は、人が集まる場所であり、学ぶ場所であり、相談する場所でもありました。江戸時代には寺子屋が置かれ、子どもたちが読み書きを習いましたよね。「門前の小僧習わぬ経を読む」という「ことわざ」が生まれたのも、子どもがお寺のそばで遊んでいるのが当たり前の光景だったからです。
神社もまた、祭りや年中行事の中心でした。人が集まれば、言葉も交わされます。そこで使われた表現が、自然と日常に広まっていったんですね。
つまり寺社の言葉が多いのは、信仰が篤かったからというより、そこが生活の場だったからということでしょう。
もう一つ、気づくことがあります。後半で紹介した言葉には、もとの意味から大きく変わったものが目立ちますよね。
「我慢」は思い上がりの心から辛抱へ。「他力本願」は仏の力にすがることから人任せへ。「有頂天」は天上界の最上階から浮かれた状態へ。「億劫」は気の遠くなる時間から面倒くささへ。
これは、言葉が難しい世界から日常の世界へ引っ越したことの証拠でしょう。専門用語が庶民の口に乗るうちに、身近な意味へと作り変えられていったんですね。
言い換えれば、それだけ深く暮らしに入り込んだということです。もとの意味を知らなくても困らないくらい、すっかり日本語になってしまったわけですから。
言葉の意味が変わっていく仕組みについては「ことわざの起源」のページでも触れていますので、あわせてご覧ください。
「挨拶」という言葉が、もとは禅僧の厳しい問答だったと知ると、朝の「おはようございます」も少し違って感じられませんか。
「億劫だなあ」とつぶやくとき、そこには仏教の途方もない時間の単位が隠れています。「有頂天」と言うとき、私たちは知らないうちに天上界の話をしているわけですね。
昔の人が寺社で交わした言葉が、形を変えて今も生きている。そう思うと、何気ない一言にも奥行きが感じられてきます。
お寺や神社を訪れる機会があったら、ちょっとだけ思い出してみてください。そこは信仰の場であると同時に、日本語が生まれた場所でもあったのですから。