ことわざ動物園

ことわざの動物イメージを読み解く

狐といえば、ずる賢い。犬といえば、忠実。猫といえば、気まぐれ。どれも当たり前のように受け止めていますが、よく考えると不思議ですよね。誰が決めたわけでもないのに、なぜイメージが共有されているのでしょうか? ここでは、「ことわざ」に描かれた動物たちの性格が、どこから来たのかを考えてみることにしましょう。

ことわざの動物イメージを読み解く

狐は、なぜずる賢いのか

「狐につままれる」「虎の威を借る狐」「狐と狸の化かし合い」。どれも狐を、人をだます存在として描いていますね。

では、実際の狐はずる賢いのでしょうか。もちろん、狐に善悪の意識はありません。けれど、人がそう感じるだけの理由はあったようです。

理由その一:夜に現れて消えるから

狐は、夜に活動します。薄暗がりのなかで目が光り、人里に姿を見せたかと思うと、ふっといなくなる。神出鬼没に見えますよね。

人は、理解できないものに意図を見出す傾向があります。なぜここにいるのか分からない、なぜ消えたのか分からない——そうなると「何か企んでいるのでは」と考えてしまうわけです。

理由その二:狩りが巧みだから

狐は雪の下にいるネズミの足音を聞き分け、高く跳び上がって頭から突っ込みます。この狩りの様子は、たしかに知恵を感じさせますよね。

理由その三:人の暮らしに入り込むから

狐はネズミを食べるため、人里の近くに現れました。害獣を退治してくれるありがたい存在でもあったわけですが、同時に鶏を狙うこともある。味方でも敵でもない、微妙な距離にいたんですね。

この「よく分からない相手」という位置づけが、ずる賢いというイメージを生んだのでしょう。

狐のことわざ

犬は、なぜ忠実なのか

一方、犬のイメージははっきりしています。「飼い犬に手をかまれる」という「ことわざ」が成り立つのは、犬が裏切らないという前提があるからですよね。

犬が人と暮らしはじめたのは、一万年以上前とされています。これはどの動物より古いんですよ。

しかも犬は群れで暮らす動物で、序列を受け入れる性質があります。飼い主を群れの仲間として認め、従う——これは狐や猫にはない特徴です。

長く一緒にいて、従ってくれる。この二つがそろえば、忠実というイメージになるのも当然でしょう。

面白いのは、狐も犬もイヌ科の動物だということです。近い仲間なのに、人との距離が違うだけで、ここまでイメージが分かれてしまったんですね。

犬のことわざ

猫は、なぜ気まぐれなのか

「猫をかぶる」「猫の目のように変わる」「借りてきた猫」。猫の「ことわざ」には、どこか本心の見えない印象がつきまといます。

理由は、猫が単独で行動する動物だからでしょう。

犬のように群れをつくらず、序列もつくりません。だから飼い主に従うという発想がなく、基本的には呼んでも来ないし、来たと思えば勝手に去っていく。

人は、相手の行動が予測できないと「気まぐれ」と感じます。けれど猫からすれば、気まぐれでもなんでもなく、ただ自分の都合で動いているだけなのです。

人の期待どおりに動かない——それが「気まぐれ」の正体というわけですね。

猫のことわざ

馬は働き者、牛はのんびり

次は、よく対にされる馬と牛の二頭です。

「馬の耳に念仏」「やせ馬の先走り」。馬には、速さや勢いのイメージがありますね。

対して牛は「牛の歩み」「商いは牛の涎」。ゆっくり、のんびりという印象です。

これは単純に、実際の速さの違いから来ています。「牛を馬に乗り換える」という「ことわざ」が、それをそのまま言いあらわしていますね。

ただし、面白いのはここからです。牛の「のんびり」は、必ずしも悪い意味ではないんですよ。「牛の歩みも千里」と続ければ、着実さの象徴になります。「牛も千里、馬も千里」なら、最後は同じところに着くという励ましですね。

同じ性質でも、見方によって長所にも短所にもなる。昔の人は、ちゃんとその両面を言葉にしていたわけです。

馬のことわざ

牛のことわざ

人は、動物に自分を見ている

狐の「ずる賢さ」も、猫の「気まぐれ」も、動物の側の性質ではなく、人から見てどうかで決まっています。

狐は企んでいませんし、猫は気まぐれではありません。ただ人の予想どおりに動かないだけです。それを人は「ずる賢い」「気まぐれ」と呼んだわけですね。

人には、物事に意図や人格を見出す強い傾向があります。雲が顔に見えたり、機械が「言うことを聞かない」と感じたり。相手が生き物ならなおさらで、そこに性格を読み取ってしまいます。

つまり「ことわざ」の動物たちは、人の心が映った鏡でもあるというわけです。

同じ動物でも、国が違えばイメージも違う

この考え方を裏づける、面白い事実があります。同じ動物なのに、国によってイメージがまるで違うのです。

狐の場合

日本では、人を化かすずる賢い動物。けれど同時に、稲荷の神様の使いとしてもあがめられてきました。悪者と神の使い、二つの顔を持っています。

中国では、妖術を使う存在として語られることが多く、西洋では「ずる賢い」という面が強調されます。イソップ童話の狐は、たいてい策略家ですよね。

竜の場合

もっとはっきり分かれるのが竜です。中国や日本では、水をつかさどる神様。めでたく神聖な存在として敬われてきました。「画竜点睛」「登竜門」など、よい意味の言葉ばかりですよね。

ところが西洋のドラゴンは、騎士が退治すべき怪物です。火を吐き、宝を独り占めし、人を襲う。同じ想像上の生き物なのに、正反対なんですよ。

龍のことわざ

豚の場合

日本の「ことわざ」で豚は、愚かな役回りが多いですね。「豚に真珠」「遼東の豕」。

ところが中国では、豚は富や多産の象徴として好まれます。ドイツでも豚は幸運のしるしで、お守りにもなっています。

豚と狼のことわざ

蝙蝠(こうもり)の場合

日本では「鳥なき里の蝙蝠」のように、どっちつかずで卑怯な印象です。

ところが中国では、「蝠」が「福」と同じ音であることから、縁起のよい動物とされてきました。おめでたい模様として、家具や着物にも使われるんですよ。

これらの例は、動物のイメージは、動物が決めているのではないということをはっきり示しています。その土地の暮らし、信仰、言葉の響き——人間の側の事情によって、イメージは作られているんですね。

ことわざに出てくる動物イメージが共有される理由

ここで、最初の疑問に戻りましょう。誰が決めたわけでもないのに、なぜ「狐=ずる賢い」というイメージが共有されているのでしょう?

答えは、言葉が先回りしているからでしょうね。

私たちは、狐を観察して「ずる賢い」と判断したわけではありません。多くの人は、実際の狐をほとんど見たことがないはずです。

それでもイメージを持っているのは、「ことわざ」や昔話で先に教わっているから。「狐につままれる」という言葉を知り、「ごんぎつね」を読み、お稲荷さんの狐像を見る。そうして出来上がったイメージを、私たちは受け継いでいるわけです。

つまり「ことわざ」は、動物のイメージを記録しているだけでなく、作ってもいるんですね。

これは、なかなか考えさせられることだと思いませんか。言葉が、私たちの物の見方そのものを形づくっているわけですから。

描かれていたのは、人のほうだった!

「ことわざ」に登場する動物たちは、ありのままの姿では描かれていません。人が見たいように見た姿、人にとって意味のある姿として描かれています。

狐のずる賢さは、理解できないものへの警戒心。犬の忠実さは、裏切られたくないという願い。猫の気まぐれは、思いどおりにならないものへのため息。牛ののんびりさは、焦らず進むことへのあこがれ。

動物の「ことわざ」を読むことは、昔の人の心を読むことでもあるのでしょう。

実際の動物がどうだったかについては「科学的に見ると本当?動物のことわざ検証」のページで確かめていますので、あわせてご覧ください。イメージと実態のずれを知ると、いっそう面白くなりますよ。

それぞれの動物の「ことわざ」は「動物にまつわることわざ」のページで紹介しています。読むときに「この動物は、どんなイメージで描かれているかな」と考えてみると、また違った発見があるかもしれませんね。